歴史探訪


歴史上の人物

天日槍 あめのひぼこ

夜明け近く白くかすむ川面の向こうに舟を漕ぐ音が響く。
「誰」とたずねると彼は名を告げた。「新羅の國の王子」と。

天之日矛あめのひぼこ(天日槍)は新羅(しらぎ)の国の王子として生まれた。ある日、天日槍は一人の若者から、新羅国アグ沼のほとりで眠っていた女性が美しい虹のような光をあびて産み落としたという赤い玉を譲り受ける。家に持ち帰り飾っていたところ、その玉は美しい乙女となり、天日槍は、乙女を妻にする。二人は楽しい日々を送るが、やがて乙女に対して不満をいうようになり、乙女は嘆き悲しみ「祖の国へ行きます」と天日槍のもとを去ってしまう。
乙女は日本の難波にたどりつき、比売詐曽(ひめこそ)神社のアカルヒメという祭神になる。一方、天日槍も八種の神宝を携えて日本へ渡ろうとするが、渡りの神に邪魔をされて、多遅摩(たじま) 国(但馬国)に上陸し、出石に住むようになる。
やがて、但馬の俣尾(またお) の娘、前津見(まえつみ)を妻にし、製鉄をはじめ大陸の優れた技術を持って天日槍は但馬に新しい文化をつくりあげていく。(古事記)

天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられている。出石神社由来記には天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されている。表現は多少異なるが古事記、日本書紀、播磨風土記にも天日槍とその一族は登場し、伝説と神秘に満ちた古代史を彩っていく。

「日本書記」には、垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。

田道間守 たじまもり

彼に出会ったのは、大和へ続く道。両腕に橘の実をいっぱい抱え去っていった。

たじまもり

田道間守/『前賢故実』より(出典:ウィキメディア・コモンズ)

多遅摩毛理たじまもり(田道間守)は、長年探し求めていた常世国(とこよのくに)の時じくの香(かく)の木の実をとうとう見つけて帰ってきた。田道間守は天日槍の子孫、三宅連(みやけのむらじ)らの祖先で、垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえることのできる実、その時節ではなくてもいつでもある香り高い果物(橘)を求める旅に出ていた。
荒海を渡りようやく命がけで橘の実を手に入れて帰ってきたのは十年後。急いで垂仁天皇のもとへいくと、その時すでに天皇はなく、悲しみ嘆いた田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてしまった。(古事記)

天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられている。出石神社由来記には天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されている。表現は多少異なるが古事記、日本書紀、播磨風土記にも天日槍とその一族は登場し、伝説と神秘に満ちた古代史を彩っていく。

忠節を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られている。また、田道間守が持ち帰った時じくの香の木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、お菓子の神様として、田道間守の故郷兵庫県豊岡市中嶋神社に祀られている。


歴史上の人物

山名宗全 やまなそうぜん

ザクザクと鎧をまとった兵が近づいてきた。 此隅山城に二万六千余騎。応仁の乱を起こした彼は「京へ昇るぞ」と勇んでいた。

山名そうぜん

山名宗全公之墓、南禅寺在真乗院、京都市左京区
(出典:mariemon

応仁の乱西軍大将 在任期間/1433年~1473年(教豊在任中を含む)
戦いは、1467年(応仁元)正月に始まった。山名の四天王といわれた、垣谷・太田垣・八木・田結庄(たいのしょう)などの武将をはじめ、遠く因幡(鳥取)備後の軍も加わり、二万六千余騎が出石に揃い、六月京都に攻め入った。
細川勝元策謀とみられる播磨赤松氏とのたび重なる争いと将軍の世継ぎ問題が絡んだこの戦は、東軍細川勝元と西軍山名宗全(持豊)が、日本を二つにわけての戦いとなった。十一年 という長い戦いになり、赤ら顔で太っ腹、毘沙門天の化身「赤入道」と言われた宗全ではあったが、1473年(文明5)病死。息子の教豊も既に亡く、家督を継いだ政豊は、戦いの決着がつかぬまま、一族共に出石に帰り、1477年(文明9)、応仁の乱はついに終わりを迎えた。

その後、播磨の赤松氏とたびたび争いを起こし、山名氏は播磨の国を失い、衰退の一途をたどる。代わって勢力を持つようになったのは、中国地方の毛利、尼子氏、中部の織田氏。祐豊の代になり山名氏は、やむなく毛利、尼子方へと代わる代わる味方をしながら、但馬一国を保っていかなければならなかった。
形勢が不利となった尼子の再挙に密かに味方した祐豊は、毛利が援軍を依頼した織田信長(羽柴秀吉)の二万の兵によって攻められ、わずか十日間で此隅城を含む十七とも十八とも言われる砦を失ってしまう。

山名祐豊 やまなすけとよ

「此隅山城が落ちてゆく、また、この地に立派な城を築こうぞ」数奇な運命に翻弄される武将の後姿を見た。

二度の落城数奇な運命をたどる武将 在任期間/1528年~1580年
此隅城を落とされ、一旦逃げのびた祐豊は、その後、信長に許され再び出石に戻り有子山の山頂に城を築く。しかし、毛利を攻略しようとする信長の野望により、羽柴(豊臣)秀吉軍によって再び、二度の但馬征伐にあう。有子山城はあえなく落城の運命をたどる。
祐豊の子、氏政は因幡に逃れ、祐豊は七十歳で病死。ここに二百余年続いた但馬守護山名氏は滅びる。

小出吉英 こいでよしふさ

「ここからの眺めは良いであろう」振り向くと、彼は微笑んで甍の続く町並みを見下ろしていた。

城下町の基礎をつくった名将 在任期間/1604年~1613年・1619年~1666年
1604年(慶長9)、山麓に城を移し、さらに内堀、外堀を設け、町の出入口は寺院を配置して、基盤の目のような町並みを作りあげた。一度、岸和田藩へ戻るが再封後は宗鏡寺の再興、領内の検地などを実施し、藩政の基盤をしっかりと築いた。

沢庵宗彭 たくあんそうほう

圧力に屈しなかった三代将軍の「師」

1573年~1645年

沢庵の父秋庭綱典は出石城主山名祐豊に仕えていました。沢庵が8歳のときに出石城が落城し、沢庵はその2年後に出石の浄土宗唱念寺に出家します。
その後、禅宗寺院宗鏡寺の塔頭(子院)勝福寺に移ります。この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。
文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。
紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。
たくあん漬けの考案者とされていますが、これについては諸説あります。

松平忠徳 まつだいらただのり

幕府の親藩、松平氏入国。「沸騰に水をさしたる如く」城下は平静

出石藩城主/初代松平氏 在任期間/1697年~1706年
徳川家新藩の松平氏が城主となる。小出氏の断絶以降、騒がしかった城下だったが、記述によると、武蔵の国より忠徳が入国した日を限りに静かになったと記されている。在任期間は短かったが、三の丸に対面所を建て1702年(元禄15)移り住んでいる。以降歴代城主の居館となった。(現在の出石町役場付近)

仙石政明 せんごくまさあきら

上田城引き渡し六月二日、出石城請け取り六月十五日。ご家来衆が慌ただしく駆けまわる。

出石藩城主/初代仙石氏 在任期間/1706年~1717年
政明が江戸城へ登城したのは1706年(宝永3)正月二十八日。信州上田藩仙石氏と出石藩松平氏の国替えが命じられた。同年六月、政明は11歳で祖父より家督を継いでいた上田藩から、出石藩の藩主となった。47歳の頃である。仙石氏は明治の廃藩置県まで、出石藩主として続いていく。

仙石騒動
1835年 幕末日本の大ニュースとなったお家騒動の発端は、仙石家の分家2家の勢力争いでした。仙石左京(行政側)派と仙石造酒(財政側)派が藩財政の運営を巡って対立。当時、お家騒動は天下の御法度だったため、幕府の裁きを受け、左京は処刑、藩主は5万8千石の知行を3万石に減らされてしまいました。

川崎尚之助 かわさきしょうのすけ

新島八重の最初の夫、会津藩に命を捧げた男

出石藩・会津藩 1836年~1875年

天保7年(1836年)但馬國出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の医師・川崎才兵衛の子として生まれる。
嘉永7年(1854)頃、江戸に出て蘭学を学ぶ。そこで、山本八重の兄、覚馬(かくま)と知り合い、その縁で会津に招かれる。会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導した。慶応元年(1865年)、覚馬の妹・八重(後の新島八重)と結婚。会津戦争では、八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加した。
詳しくは、「川崎尚之助の故郷を旅する」をご覧ください。

多田彌太郎 ただやたろう

それでは、これより大砲の威力を、お見せいたしまする。

出石藩勤皇の志士 在任期間/1826年~1864年
出石藩士の子に生まれる。弘道館に学び、特に記憶力、武術に優れた秀才であった。
外国船が日本に来航するやいなや、長崎で西洋の砲術を学び、自ら木製の大砲を作り、出石で実射をおこなう。当時大砲を持つ藩は、近畿でも限られており画期的な出来事だった。
その後、勤皇派の人々と共に働いたが、生野義挙で倒幕の兵を上げ失敗。逃亡中浅間峠で斬殺される。
高橋甲太郎と共に「攘夷論」「海防難論」など多くの書物を書き残している。

多田彌太郎の門下生の中に、大砲試射の助手をつとめた一人の若者がいた。彌太郎が心にかけ将来を期待した加藤弘之、後の東京大学初代総長となる人物である。


歴史上の人物

加藤弘之 かとうひろゆき

彼は子どもたちに話す。 毎日読む書物もすべて自分で写さなければならなかった」と。

加藤弘之

『近世名士写真』に収録された加藤の肖像写真(出典:ウィキメディア・コモンズ)

東京大学初代総理 1836年~1916年
出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。
特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。
1881年(明治14)、東京大学の初代総理に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。

桜井勉 さくらいつとむ

「郷里に戻って来た老人は 空を見上げ、雲の形、風の流れを読んでいた。

天気予報の創始者 1843年~1931

出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報を開始させた。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。

斎藤隆夫 さいとうたかお

その日の朝、彼方の空の下を目指して旅立つ若者を見た。

帝国主義と戦う政党人・弁護士 1870年~1949年

出石に生まれる。自分が求める学問を目指して、東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、首席で卒業。さらにアメリカイェール大学法科大学院に留学する。
政治家を目指し、1912年(明治45)、衆議院議員に初当選。昭和になり満州事変、二・二六事件、日華事変が勃発。軍人による弾圧が厳しい時代に、敢然と国会で「日本の国は立憲君主国であり、我々国民はこの道を進むべきである。しかし、政治家の中には軍と影で手を結んで政治上の野心をとげようとする者があることは、見逃すことができない」と演説。1時間25分に及ぶものだった。
その結果、議員を除名。約二年後、総選挙で隆夫は再度立候補する。政党軍部はあらゆる妨害をおこなったが開票結果は最高点で当選。戦争の最中にあって、但馬の人々は絶大の信頼と拍手で隆夫を国会に送りだした。
国会議員十三回、国務大臣二回就任。「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」と政治活動をおこなった。(静思堂資料展示)
静思堂(出石町中村)

伊藤清永 いとうきよなが

絵に生き、画壇に偉大な足跡を残す現代洋画の重鎮

伊藤清永

洋画家、名誉町民 1911年~2001年

1911年(明治44)、出石町下谷の吉祥寺住職の三男として生まれ、22歳で帝展に初入選。東京美術学校卒業後、一時、実家の住職を務めましたが「発光する裸婦」と讃えられる作品群で日展特選、内閣総理大臣賞などを受賞。日本芸術院会員、勲四等恩賜賞、1996年(平成8)には文化勲章を受賞するなど歴々の栄誉に輝きました。
後年は、繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られています。
70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了しています。
画伯の画業を顕彰して建てられた豊岡市立美術館-伊藤清永記念館では、伊藤画伯の作品が鑑賞できます。

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