| 彼は子どもたちに話す 「毎日読む書物もすべて自分で写さなければならなかった」と。 |
| 加藤弘之かとうひろゆき |
| 初代東京大学総長 1836年〜1916年 |
出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。 1881年(明治14)、帝国大学の初代総長に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。 |
| 郷里に戻って来た老人は 空を見上げ、雲の形、風の流れを読んでいた。 |
| 桜井勉さくらいつとむ |
| 天気予報の創始者 1843年〜1931年 |
出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報を開始させた。 晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。 |
| その日の朝、 彼方の空の下を目指して旅立つ若者を見た。 |
| 斎藤隆夫さいとうたかお |
| 軍国主義と戦う政党人 1870年〜1949年 |
出石に生まれる。自分が求める学問を目指して、京都・東京、さらにアメリカエール大学に留学する。政治家を目指し、1912年(明治45)、衆議院議員に初当選。昭和になり満州事変、二・二六事件、日華事変が勃発。軍人による弾圧が厳しい時代に、敢然と国会で「日本の国は立憲君主国であり、我々国民はこの道を進むべきである。しかし、政治家の中には軍と影で手を結んで政治上の野心をとげようとする者があることは、見逃すことができない」と演説。1時間25分に及ぶものだった。 その結果、議員を除名。約二年後、総選挙で隆夫は再度立候補する。政党軍部はあらゆる妨害をおこなったが開票結果は最高点で当選。戦争の最中にあって、但馬の人々は絶大の信頼と拍手で隆夫を国会に送りだした。 国会議員十三回、国務大臣二回就任。「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」と政治活動をおこなった。(静思堂資料展示) |
| 絵に生き、画壇に 偉大な足跡を残す現代洋画の重鎮 |
| 伊藤清永いとうきよなが |
| 名誉町民 1911年〜 |
1911年(明治44)、出石町下谷の吉祥寺住職の三男として生まれ、22歳で帝展に初入選。東京美術学校卒業後、一時、実家の住職を務めましたが「発光する裸婦」と讃えられる作品群で日展特選、内閣総理大臣賞などを受賞。日本芸術院会員、勲四等恩賜賞、1996年(平成8)には文化勲章を受賞するなど歴々の栄誉に輝きました。画伯の画業を顕彰して建てられた伊藤美術館では、伊藤画伯の作品が鑑賞できます。
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