| ザクザクと鎧をまとった兵が近づいてきた。 此隅山城に二万六千余騎。応仁の乱を起こした彼は「京へ昇るぞ」と勇んでいた。 |
| 山名宗全やまなそうぜん |
| 応仁の乱西軍大将 在任期間/1433年〜1473年(教豊在任中を含む) |
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戦いは、1467年(応仁元)正月に始まった。山名の四天王といわれた、垣谷・太田垣・八木・田結庄(たいのしょう)などの武将をはじめ、遠く因幡(鳥取)備後の軍も加わり、二万六千余騎が出石に揃い、六月京都に攻め入った。
細川勝元策謀とみられる播磨赤松氏とのたび重なる争いと将軍の世継ぎ問題が絡んだこの戦は、東軍細川勝元と西軍山名宗全(持豊)が、日本を二つにわけての戦いとなった。十一年 という長い戦いになり、赤ら顔で太っ腹、毘沙門天の化身「赤入道」と言われた宗全ではあったが、1473年(文明5)病死。息子の教豊も既に亡く、家督を継いだ政豊は、戦いの決着がつかぬまま、一族共に出石に帰り、1477年(文明9)、応仁の乱はついに終わりを迎えた。 |
| その後、播磨の赤松氏とたびたび争いを起こし、山名氏は播磨の国を失い、衰退の一途をたどる。代わって勢力を持つようになったのは、中国地方の毛利、尼子氏、中部の織田氏。祐豊の代になり山名氏は、やむなく毛利、尼子方へと代わる代わる味方をしながら、但馬一国を保っていかなければならなかった。 形勢が不利となった尼子の再挙に密かに味方した祐豊は、毛利が援軍を依頼した織田信長(羽柴秀吉)の二万の兵によって攻められ、わずか十日間で此隅城を含む十七とも十八とも言われる砦を失ってしまう。 |
| 「此隅山城が落ちてゆく、また、この地に立派な城を築こうぞ」 数奇な運命に翻弄される武将の後姿を見た。 |
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| 山名祐豊やまなすけとよ | ||
| 二度の落城数奇な運命をたどる武将 在任期間/1528年〜1580年 | ||
祐豊の子、氏政は因幡に逃れ、祐豊は七十歳で病死。ここに二百余年続いた但馬守護山名氏は滅びる。 |
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| 忠節を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られている。また、田道間守が持ち帰った時じくの香の木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、お菓子の神様として、田道間守の故郷兵庫県豊岡市中嶋神社に祀られている。 |
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| 「ここからの眺めは良いであろう」振り向くと、 彼は微笑んで甍の続く町並みを見下ろしていた。 |
| 小出吉英こいでよしふさ |
| 城下町の基礎をつくった名将 在任期間/1604年〜1613年・1619年〜1666年 |
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1604年(慶長9)、山麓に城を移し、さらに内堀、外堀を設け、町の出入口は寺院を配置して、基盤の目のような町並みを作りあげた。一度、岸和田藩へ戻るが再封後は宗鏡寺の再興、領内の検地などを実施し、藩政の基盤をしっかりと築いた。
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| 幕府の親藩、松平氏入国。 「沸騰に水をさしたる如く」城下は平静をとり戻していた。 |
| 松平忠徳まつだいらただのり |
| 出石藩城主/初代松平氏 在任期間/1697年〜1706年 |
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徳川家新藩の松平氏が城主となる。小出氏の断絶以降、騒がしかった城下だったが、記述によると、武蔵の国より忠徳が入国した日を限りに静かになったと記されている。在任期間は短かったが、三の丸に対面所を建て1702年(元禄15)移り住んでいる。以降歴代城主の居館となった。(現在の出石町役場付近)
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| 上田城引き渡し六月二日、出石城請け取り六月十五日。 ご家来衆が慌ただしく駆けまわる。 |
| 仙石政明せんごくまさあきら |
| 出石藩城主/初代仙石氏 在任期間/1706年〜1717年 |
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政明が江戸城へ登城したのは1706年(宝永3)正月二十八日。信州上田藩仙石氏と出石藩松平氏の国替えが命じられた。同年六月、政明は11歳で祖父より家督を継いでいた上田藩から、出石藩の藩主となった。47歳の頃である。仙石氏は明治の廃藩置県まで、出石藩主として続いていく。
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| それでは、これより大砲の威力を、お見せいたしまする。 |
| 多田彌太郎ただやたろう |
| 出石藩勤皇の志士 在任期間/1826年〜1864年 |
出石藩士の子に生まれる。弘道館に学び、特に記憶力、武術に優れた秀才であった。外国船が日本に来航するやいなや、長崎で西洋の砲術を学び、自ら木製の大砲を作り、出石で実射をおこなう。当時大砲を持つ藩は、近畿でも限られており画期的な出来事だった。 その後、勤皇派の人々と共に働いたが、生野義挙で倒幕の兵を上げ失敗。逃亡中浅間峠で斬殺される。 高橋甲太郎と共に「攘夷論」「海防難論」など多くの書物を書き残している。 |
| 多田彌太郎の門下生の中に、大砲試射の助手をつとめた一人の若者がいた。彌太郎が心にかけ将来を期待した加藤弘之、後の東京大学初代総長となる人物である。 |
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